テルモ/北里柴三郎と福沢諭吉

キャッチコピー
「人に報いる 恩に報いる」

テルモの企業広告です。
広告のビジュアルは、テルモ発起人の一人である北里柴三郎と福沢諭吉。“医療の挑戦者たち”というテーマで、テルモが長年続けているシリーズ広告です。銅版画風のイラストとともに、毎回読み物として面白い広告となっています。読み物風の広告は、ポスターなどと違って雑誌向きかもしれません。

新千円札の顔に

平成が終わる2019年4月、20年ぶりに刷新される新千円札のデザインに北里柴三郎(1853〜1931)が選ばれました。そこで思い出されるのが福沢諭吉です。新千円札の顔である北里柴三郎と現壱万円札の福沢諭吉のふたりには、深い縁がありました。

北里柴三郎はドイツ留学から帰国後、福沢諭吉の支援で結核の研究所を造ったという経緯があり、北里にとって福沢は大恩人です。「日本の未来のために」という福沢諭吉の熱い想いを北里柴三郎が紙幣で受け継いでいくのです。

【北里柴三郎とは?】
破傷風菌の純粋培養に世界で初めて成功し、血清療法を開発した医学博士。ペスト菌の発見など、生涯を予防医学の発展に尽くし、第1回ノーベル医学賞で、受賞候補に挙げられた。

北里柴三郎と福沢諭吉の意外な関係

1892年(明治25年)の秋、北里柴三郎は三田の福沢諭吉邸へ続く道を歩いていた。

福沢は慶應義塾に大学部を設け、偉大な教育者として名を馳せていた。一方の北里は、ドイツ留学で世界的な業績を挙げた後、内務省衛生局に復帰していた。だが、それも名ばかりで、半年近く無益な日を過ごしていた。

北里の話を聞いた福沢は、「この男に活躍の場を与えないのは国家の損失だ」と悟った。その場で、「芝公園に借りている土地があるから、そこに必要な建物を造ってスタートしようじゃないか。毎月の研究費も私が負担する」と促した。その土地は、福沢が子女の将来のために用意していたものだった。

北里は小さな研究所を造った。研究陣を拡充し、やがてヨーロッパの大研究所にも比肩する北里研究所を設け、日本の伝染病研究の中心としての地位を築いていった。

福沢が没して久しい1916年(大正5年)、北里は慶應の鎌田塾長から、医学科新設の相談を受けた。北里は即座に賛成した。「福沢先生から受けた恩顧に報いるのは、この時である」と設立委員会の中心となり、準備を進めていく。

以前、福沢は慶應に医学所と設立したことがあるが、短期間で閉鎖を余儀なくされていた。医学科の設立は福沢の悲願であった。

1917年(大正6年)、北里は初代医学科長に就任した。そして十年余の在職期間中、給与その他一切の報酬を固辞し、報恩の精神を貫き、無償でその任にあたったという。

テルモ「医療の挑戦者たち」より

企業広告の意味とは?

こうした企業広告は、社会貢献活動、文化活動などを外へPRしていくことによって社会的信用を高めるという効果があります。いわゆるブランディングの一環です。たとえば、人が同じような製品を選ぶ場合、「環境に配慮している」とか「社会奉仕活動をしている」といった企業の背景が無意識にイメージされてきます。

企業のイメージアップを図ることで、結果として、自社製品の売上拡大に寄与することを狙っているのです。企業広告の効果は、製品の売上だけではありません。例えば、優秀な人材の確保や従業員の意識にも充分な効果を発揮することになります。

いままでは、製品広告と企業広告は完全に分離して存在していましたが、最近では、製品広告と企業広告を一体としてとらえる発想が強まっています。たとえば、“C型肝炎”“疼痛”などの領域ごとで、企業広告を打ってくるケースです。これらは、企業広告を一歩推し進めて、製品の売上に繋げることを想定しているのだと思います。製薬企業も商売ですから、やはりいろいろなことを考えて、仕掛けを練っているのです。

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